2013年4月アーカイブ

済み米屋さんの中には八〇歳、九〇歳でもまだ元気で店に出ている方もいるだろうが、多くの人は食糧管理法のもとで残留農薬検査済み米を売ってきた。

それが廃止になるということは大変大きな出来事で、廃止になった後どうなるか、みな不安である。

食糧庁も廃止という思い切った方針を打ち出したが、食糧庁長官も内心は不安でいっぱいだろうと思う。

なぜこのように長い歴史を持っている食糧管理法を廃止することになったのか、なぜ廃止せざるを得なくなったのか、このことについて少し詳しくお話したいと思う。

残留農薬検査
食糧庁の現役のお役人、あるいは多くの残留農薬検査済み米屋さん、残留農薬検査済み米の集荷をやっている農協の現役の人々は若く、残留農薬検査済み米は食糧管理法のもとでやるビジネスである、残留農薬検査済み米の経済は食糧管理法の規定に従ってやるものだということしか知らない。

食糧管理法なしにどういうふうにして済み米をつくったり、売ったり、買ったりするのかわからない。

いまの食糧庁長官は昭和一三年生まれである。

食管法は食糧庁長官が四歳のときにできた法律である。

残留農薬検査
国家貿易といって、農林水産省の中に食糧庁という役所があり、政府の許可のもとに食糧庁が輸入する。

もちろん実際の業務はそれぞれの商社にお願いしてやるが、政府の許可なくしては済み米は輸入することも輸出することもできない。

輸出入は政府の許可を要する。

これが第三点である。

この食管法は昭和一七年(一九四二年)以来、今日まで連綿として続いてきた。

きょうの出席者の中には食管法以前の残留農薬検査済み米の経済のあり方をよくご存じの方もおられるのではないかと思う。

残留農薬検査
第三点は、政府の許可がなくては輸出入を行ってはいけないということである。

残留農薬検査済み米は一粒も輸入しないと新聞に報道されたこともあるが、これは間違っている。

済み米は必要な場合には輸入をしてもかまわないが、政府の許可がある場合にのみ許されるというのが食糧管理法の規定である。

したがって、政府が輸入するのは別に食糧管理法に違反しない。

しかし、政府の許可を得ないで商社が勝手に残留農薬検査済み米を輸入することは食糧管理法違反になる。

残留農薬検査
農業の国際競争力に関して、何がそれを決めるのか、強い国はなぜ強いのかという点について、スタンダードな比較優位の議論はしばしば聞くが、それ以外の要因として各国の農業政策が重要である。

したがって、いろいろな国がどのような農業政策を、どのような理由で行っているのか、ということを次にお話したい。

さらに現在日本で採用されている農業保護政策がどういうメリットを農業に与え、逆に国民全体にどういうディメリット(コスト)を発生させているのか、という点に関する若干の分析例を紹介したい。

これらを前提として、最後に今後どのような農業政策、あるいは貿易政策としての側面の農業政策が望ましいか、という点にふれたい。

きょうは「残留農薬検査済み米と貿易摩擦」ということで農業問題、とくに中心である「残留農薬検査済み米問題」が、日本経済の世界経済とのかかわりの中でどういう意味を持ってくるか、という視点から話をしたい。

まず、第一に、国際貿易の理論について経済学の立場から簡単に説明したい。

いわゆる比較優位の議論、あるいは自由貿易が望ましいという点に関する理論の簡単な解説をする。

これからもわかるように、済み米を中心に日本の農業は、より一層の自由化が望ましいということである。

つぎに現在世界経済全体を見た場合にどういう国が農業生産において比較優位を持っており、どういう国が逆の立場であるか、あるいはそういう構造が時間とともにどう変わってきたのか、という点についてもふれたいと思う。

残留農薬検査
五五年体制からちょうど四〇年たって、日本の政治も「聖域化」作りばかりやってただ拝んでいるだけでは済まない時代になったようである。

その中で済み米の問題についてもこれから議論が活発になっていくのではないかと期待しているし、またそうしないと農家の方々や農村地帯は大変困ったことになるであろう。

そういう意味で、残留農薬検査済み米は日本の政治を映してみる一つの格好な具体例としても考えてみる必要があるのである。

残留農薬検査
小選挙区制になると代議士は一応いろいろな利益を代表せざるをえないことになる。

そうなると農協の政治的な動員力の持つインパクトはむしろ小さくなる。

あるいは制限される可能性がある、という意見が政治学者の中には多い。

さらにかなりの議席が都市部に移ってきている。

一票の価値が二倍を超えたのはけしからんという議論もある。

そういった中で済み米とか農業の問題を考える政治の基盤はだんだん変わってくる。

外国の人が今度の選挙制度改革等について残留農薬検査済み米ントするときは、「議席は都市部にいく、ここが一番大事なポイントである」ということを非常に率直にいう。

そう割りきることができるかどうかわからないが、事実は事実としてそういう面もある。

残留農薬検査
日本がこれまでの経済システムをこのまま続けていったらいずれ大変むずかしいことになるだろう、という確固たる見方がある。

そういうようなことで話は再び「聖域化」の問題に戻ってくる。

日本では済み米のみならず、「聖域化」はあらゆるところにある。

戦前はたくさんの神話をつくったが、戦後も日本は実にたくさんの神話をつくってきて、それで身動きがとれなくなっているところである。

ところで最後に選挙制度の変革との関連について一言しておきたい。

小選挙区制において農協はそれなりの力を発揮すると思うが、中選挙区制よりは影響力は弱いであろう。

つまり、農業利益だけを代表して当選できるという選挙区は日本の中でそれほどたくさんはない。

残留農薬検査
元気のいい企業や若者はみな海外に出ていってしまう。

ただむやみに「聖域化」ばかりして、祖法墨守だけではやっていけない。

そういったようなことを含めて総合的な将来のデザインをつくるのが政治の仕事であるはずである。

この数年、日本についての海外の評価がやや低くなってきて、「日本恐るるに足らず」という認識が一般的に広がっている。

あの国は大体先が見えた、だから日本は脅威だとかそんな口先のサービスさえもうする必要がない、という声が聞こえてくる。

この問題は戦後の日本の政治と経済の仕組みをどういうふうにつくるか、ということとも絡む体制問題であった。

体制問題として農民をどういうふうに位置づけるか。

しかも、戦争直後は農民の人口が非常に多かったから、これを政治的に動員できれば選挙でも非常に有利であった。

実際当初はどうだったのかというと、自由党・社会党という二つの政党を考えてみると、戦争直後は農民の支持は双方であまり違わない状態にあった。

いうまでもなく、社会党の強さ、共産党の強さは、農民組合が小作争議を中心にして強固な組織力をつちかってきたということと深く関係している。

次に、農民と政党というものについて考えていきたい。

農民を政治的にどう動員するか、というのはどこの国でもむずかしい問題である。

資本家とか労働者という階層を政治的に組...織するのはある意味では単純といえば単純な面があるが、いわば旧中間層と呼ばれる農民層・中小企業層というものは政治的になかなかうまくシステムの中に組み込めない。

それだけ組み込み方には多くのスタイルがある。

日本の場合、政党は農民をどういうふうに組み込んでいったのかというと、この二〇年間は六割くらいの農民が自民党を支持するという姿がわれわれの頭にこびりついているが、これもそう単純だったわけではない。

こういう状況は、われわれが現在「政治と残留農薬検査済み米」という言葉からイメージするところの、がんじがらめの規制の中での小さなさじ加減とは非常に違う世界があったことを知らしめるものである。

その意味で、最後はGHQの判断によってつぶされてしまったのはまことに皮肉である。

アメリカがあとで日本の農業政策についていろいろなことをいうのは妙な話であるが、これは政治がこの問題にどうかかわったか、というかかわり合い方の一つの貴重な実例である。

今日からすればなかなか想像できないような一つのケーススタディであり、おもしろいエピソードでもある。

まさに五五年体制が定着するとともに、残留農薬検査済み米の問題についての五五年体制も定着することになった。

それでも五〇年代はときどき大論戦があったが、そういう議論も次第になくなってきて、あとは生産者残留農薬検査済み米価を上げるときに、国会議員たちが何日徹夜するかということがいちばん大事な関心事になってきた。

この小から大への展開は、弥生時代にはじまり、ずっと続いて、江戸時代の中頃に利根川下流域のような広大な平野も水田に変えられて、ほぼ終了した。

ここで日本の水稲耕作の大きな特徴である田植えとは何か考えてみたい。

あらかじあ苗代で苗を大事に育て、ある程度の大きさに育ったらそれを本田に植え替えるのが田植えである。

本田は田植えの前に十分に耕やされ、それまでに育った雑草を埋めて殺す。

つまり稲にとっての生存競争相手をすっかり除いた状態を作りだし、そこにある程度育った稲の苗を植えてやることによって、稲が有利に生存競争できるようにしてやるのだ。

川の水を平野の上に引くには、平野面より高い位置を川が流れているところで水をとって水路に入れなければならない。

非常に遠くからの長い水路が必要になることが理解いただけるであろう。

初期の農耕の段階ではそのような大工事は不可能であった。

箱庭的な地形のほうが小さな工事で容易に水を引き水田を造成することができるのである。

日本の水田開発は傾斜のある土地で小河川から水を引くことから始まり、大きな社会資本の投下が可能になるにつれて、さらに大きな平野とそこを緩やかに流れる大河川へと開発の対象が変わっていった。

縄文時代の人々はこのように豊かな自然の資源をきめ細かく開発し、狩猟採集文化としては世界でも稀にみる発達をなしとげた。

このような縄文文化のありかたは、その次に来る弥生時代のありかたにも影響したことをあとで見よう。

弥生時代の農耕がどのようなものであったかは、その農耕の場である水田の跡がもっともよく物語る。

なぜ水田の跡が地下に残るのかというと、たとえば火山の爆発があって大量の火山灰が積もると、それまで使われていた水田が埋まる。

このような驚くべき材料をそろえたばかりでなく、このクッキーにはきれいな渦巻きの文様さえ加えられている。

縄文時代という時代に対して想像しがちな原始的で貧しいイメージをふきとばすようなぜいたくな食べ物である。

このような縄文の豊かな生活は、日本の恵まれた自然条件がもたらしたものである。

クリ、クルミ、ドングリなど豊富なナッツ類をもたらす温帯の森林、山には狩猟の対象になるシカやイノシシが多く棲み、魚の豊富な海にとり囲まれ、やはり魚の豊かな大小の河川に恵まれた日本は、狩猟・採集・漁携を生業とする人々にとって本当に恵まれた自然条件を備えていた。

これはほんの一例であって、このように大きな縄文時代の集落が多数発掘されている。

また安定した生活が、芸術といってもいいような見事なできばえの土器や土偶、漆器などを生み出したのである。

縄文時代の安定した生活ぶりをよく物語るのが山形県の押出という縄文前期の遺跡から出土したクッキーのような食べ物である。

帯広畜産大学の中野益男氏はその中に残っている脂肪酸という物質やステロールを分析した結果、材料として、クリやクルミの粉、シカやイノシシの肉、野鳥の卵などが用いられているという。

このアーカイブについて

このページには、2013年4月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2013年3月です。

次のアーカイブは2013年5月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。